◆正午山房通信

   「正午山房」は俳人原石鼎の終の栖で、鹿火屋代々の主宰が住みなしたところ。
   原裕が午年の正午の生まれであったことから名づけられました。
   六月二十五日、祖母の忌日の朝はいつもより早く目が覚めました。
   四日前、近隣の方々と菩提寺の山墓にお参りする計画でしたが、
   朝から本降りとなったので山墓まで行くのは諦めて、境内の句碑に手を合わせて散会しました。
   幸い、夕刻には晴れたので花を供えるために山墓まで上がりましたが、ばつが悪い思いがきえませんでした。
   実は、山墓の掃除に行き違いがあり、墓参りの予定の日に間に合わなかったのです。
   ふと、午前中の大雨は遣らずの雨ならぬ、山墓へ遣らぬための雨だったのかもしれないと思えました。
   そもそも四日前は夏至で、夏至は太陽が最も長く天空に留まる日にも拘わらず、雨が降ることが多い。
   それは天の配慮かも知れませんが、迂闊にも私は雨になる確率の高い日を墓参りに選んでしまったのです。
   だが、この日本降りになったのは、そればかりではないように思いました。
   終生、身綺麗であることを望んだ祖母のこと、山墓とはいえ醜態を人目に晒すのは憚られたのでしょう。
   土砂降りの雨は祖母の采配に思えてなりませんでした。
   忌日の朝、まだ六時前でしたが、草刈の用意を整えて家を出ました。
   菩提寺に着くと本堂に向って一礼し、山墓に向いました。
   枝を張った雑木を切り、墓石の隙間の芒を刈り取るとやっと山墓らしくなりました。
   花入れに水を足し、線香の煙を立てると漸く墓参りを果した気分になりました。
   家に戻ると海紅豆の紅い花が目の前に二つ並んで咲いていました。
   海紅豆は切り倒した株から生えて来た蘖で、七八年かけて見事に蘇生したものだが、年々祖母の忌日が近づく頃には赤い花を地上に降らせていました。
   それがどうしたものか、鳥の嘴のような花の蕾は落ちて来るものの、なかなか花を咲かせてくれませんでした。
   暦の上で梅雨に入っても一向に梅雨らしい天気にならず、高温の日もあったので、雨を好む海紅豆は咲き時を逸したのでしょう。
   この花が天へ咲き登ることによって祖母の忌日を知ることになるのですが、それも叶いませんでした。
   一つ何かが狂うと次々と狂いが生じるもののようです。
   祖母の忌日を巡ってちぐはぐしたことが続いていましたが、山墓を整えてお参りし、
   家に戻って海紅豆の花を眼にしたとき、漸く祖母の忌に間に合ったのだと安堵しました。
   (24・6・25)








◆艸たろ館展示のご案内

艸たろ館は、大正13年に建てられた道山家の土蔵を改築したもので、
須賀川の俳諧の系譜をたどることを目的とし、
主に俳句関係の軸装、色紙、短冊をテーマごとに展示している。
道山家は、子規の「はて知らずの記」にも登場する須賀川の名望家である。

桔槹創刊百年を記念して母体であった俳誌「鹿火屋」創刊の主宰、原石鼎、
その妻であり二代目主宰であったコウ子、
道山草太郎友人で「桔槹」「鹿火屋」同人でもあった白河の画家、
大竹仰峰の三人展を令和4年4月20日~6月30日まで開催しております。
是非ご覧下さい。おいでの際はお電話をいただければ幸いです。
道山はるか(090-2157-7592)





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