沿革






昭和26年12月


平成11年

平成23年

平成28年



特色及び理念

大正10年5月 原石鼎が小野蕪子の「草汁」を「鹿火屋」と改題し、発足しました。
鹿火屋は結社名であり、誌名(月刊)でもあります。鹿火屋とは田畑を荒らしに来る鹿や猪を追い払うため、
火を焚いたり板を打ち鳴らしたりした小屋のことです。
大正元年、軍医である次兄の手伝いをするために、奈良県の深吉野に入った石鼎はこの地で数々の名吟を詠み、
高浜虚子に「大正二年の俳句界に二の新人を得たり。曰く普羅、曰く石鼎(「ホトトギス」大正3年正月)」と評されました。
結社名「鹿火屋」は深吉野での名吟の一つ、「淋しさにまた銅鑼打つや鹿火屋守」から取られたものです。

原裕没後は、夫人の和子が主宰を継承しました。
翌年、堀込昇が原家に入籍して、原裕と号し、昭和49年、三代目の主宰を継承しました。

原裕没後は、夫人の和子が主宰を継承し、今日に至っています。

和子の長女が副主宰に就任しました。

平成28年  原和子は鹿火屋会会長に就任し、原朝子が鹿火屋主宰を継承しました。
現在(平成28年1月)、1100号を数えます。


石鼎は、「鹿火屋守」の句ができたときの淋しさを一生忘れまいとして誌名としたといわれています。
鹿火屋では、一句に流れる抒情性が重視されています。それが、石鼎では「淋しさ」でしたが、
裕によって淋しさの背景にある「懐かしさ」が発見されたことにより、鹿火屋俳句の根底に流れる情感として
「懐かしさ」が重要視されるようになりました。
また、俳句における抒情性とともに裕によって提唱された方法論が、「写生より想像力へ」です。
昭和46年、鹿火屋の50周年の記念大会において、それまで写生を主としていた俳句から、
写生を起点としながら想像力によって展開される俳句のありようが提唱されました。
それは、当時の俳句界の傾向と連動したものでもありました。
この「懐かしさ」と「写生より想像力へ」が、鹿火屋俳句の根幹をなすものです。
また、作句の心構えとして、石鼎が提唱した「常に心持を出来るだけ低めて、即ち親しみて物を見る」という姿勢は、
作句のみならず選句の指標ともなっています。


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