俳句は素数でできている
             原 朝子

 「俳句は素数のようなもの」。
これは、青木伸治という数学家が遺した言葉である。
先頃、青木夫人が、ある俳句大会の授賞式の折、自らの俳句の向き合い方としてご主人の言葉を披露された。青木夫人とは旧知の間柄であるが、
彼女から「俳句は素数でできている。素数は美しい」という言葉を聞いたとき、新鮮な驚きを覚えた。
 それが番組の制作者の心にも留まったのだろう、青木氏の遺影とともにこの言葉が電波に乗って流れた。
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 「俳句は素数でできている」という十三音には、呪術の響きがある。
唱えると、眼前には不思議な光景が広がる。
 はるか天空に雷鳴が轟き、一陣の風が吹き降りてきて、地上の草花が揺れ始める。
その揺れは水輪のように拡がり、一木一草に至るまで心地よく揺れながら「俳句は素数でできている。素数は美しい」と唄が沸き起こる。
その唄は果てしなく森羅万象の中を流れていく。
それは、あたかも神の啓示が舞い降りたかのようだった。
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 「純粋直観」が脳裏を掠める。数学者岡潔によれば、打算も分別もはいらない行為のさいに働いているもの、
それが純粋直観であり、真智とも智力ともいわれる。
智力の光は、人の内面に向かって、感覚、知性、情緒の順に差し込んでいくが、
情緒(こころ)の部分は深海の底のように光が射しにくい。 
 「俳句は素数でできている」という言葉は、純粋直観の光となって私の心の奥底の深い闇に射し込み、 眠っていた景色を瞬時に照らし出したのだった。
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 素数に話を戻そう。
素数とは、一より大きい自然数のうち、一と自分自身でしか割り切れない数をいう。
一に次々に一を加えて得られる自然数によって、花や鳥や果実など自然界に存在するものが数え上げられる。
そこにわれわれの美意識が働くと、素数に当るものが際立って見えてくるのだろう。
 何故、素数は美しいか。
思うに、素数が一以外の他の数の介在する余地を与えない自立した、独立した数だからだろう。
一説によれば、一は神にかかわる数とされる。
となれば、素数に関わることができるのは神のみとなるのだろう。
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 俳句は素数でできている。それは、五・七・五の音節もその和の十七も素数であることを意味する。
 素数で構成される詩歌は俳句に限らない。隣国に目を向ければ、五言絶句があり、七言律詩があり、素数の存在が見いだされる。
 だが、五・七(七・五)という二つの素数の並びを繰り返しその調べを心地よいものとして受け留めたのは日本人ではなかったか。
五・七の繋がりは日本人の感性に合う美しい調べをつくりだす。
この延々と続く流れを七を繰り返すことで止めるのが短歌であり、
五・七・五で止めるのが俳句である。
(連句では、五・七・五と七・七が二分されて繰り返されていく)
 中でも最も短い詩形を誇る俳句では、素数の性質が色濃く影を落とす。
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 素数には、素数同士を足しても素数になるとは限らないという性質がある。
つまり、五と七、七と五を合わせただけでは素数にならない。
俳句では、初学においてこの十二音を表現の場とし、五音を季語のために空けておくことが、
美しい句を詠むための要諦だと教えられる。(所謂、二句一章の基本形である。)
 表現の場である十二音は素数ではないが、そこに「季語の座」である五音が加わることにより、
十七音が完成する。素数ではない数を合成数というが、
素数が合成数になり再び素数に戻る過程には、芭蕉や蕪村が唱えた離俗の教えが彷彿とする。
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 俳句は素数のようなもの。
 素数は美しい。
 故に俳句は美しい。
そう、俳句は美しくあらねばならないのだ。
(「鹿火屋」2019年3月号より転載)



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