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●原石鼎 はらせきてい (1889〜1951) 俳人 |
伊勢街道の南路が通り、杉や檜の山林と清流の瀬音で知られる山村、東吉野村は、原石鼎の俳句開眼の地である。 この深吉野の石鼎を語る上で欠かせない場所が、萩原にある鳥見霊畤址(とみのれいじあと)である。 鳥見霊畤は、神武天皇が橿原宮(かしはらのみや)で即位の後、戦勝を神に感謝されて秋津野の鳥見山中に建てられた祭りの庭で、 ここを訪れた石鼎が、霊感に打たれて詠んだのが<頂上や殊に野菊の吹かれ居り>であった。 現在では鬱蒼とした木立に閉ざされているが、当時は広々とした平地で、東に高見山を望み、 宇陀や吉野の山々を一望できる「頂上」であった。鳥見霊畤址へはいくつかの登山道が知られているが、 石鼎は御治屋谷(おじやだに)の谷道を登っていったといわれている。 この谷道は、軍医であった次兄を手伝うために石鼎が住んだ旧居からも近い登山道である。 石鼎旧居は、高見川にかかる三舟橋のほとりにあった。三舟橋は「荻の橋」の舞台となった場所で、石鼎が座って尺八を吹き、 清流に心遊ばせた「河鴉の岩」は今も当時のままである。石鼎旧居は、平成三年に天照寺の側に移築された。 この庭には、石鼎が天照寺の川向いの灯火を詠んだ<かなしさはひともしごろの雪山家>の句碑が立っている。 深吉野の石鼎句碑は丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)境内の「頂上や」と旧居の庭の「かなしさは」と 明治谷(みょうじだに)の<花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月>の三基であるが、 その他の作品の作句地についても明らかにされている。 石鼎が東吉野村小(おむら)に暮らしたのは、明治四十五年(1912)七月から大正二年十月までの短い期間であったが、 石鼎に俳句一途の一生を決意させるには充分であった。石鼎を魅了した山村の風景は、石鼎が求めた「物の本性」を見つめる 俳句のありようを今に伝えている。 (「私が選ぶ俳句遺産ファイルナンバー17」「俳壇」2007年7月号より) |
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